あなたは、最下層から這い上がるために、鬼になることができるか。
ある噺家は、この噺を聞いて落語家になったそうです。その方によると、「黄金餅」こそ、人間の業というものを深く感じるものだそうです。そういえば、立川談志さんによれば、落語は「業の肯定」とか。まさにそれを自でいく噺です。
あらすじ
ある貧乏長屋に金山寺味噌を作る男がいる。隣には西念という願人坊主が住んでいる。坊主といっても、家々の前に立ち経や念仏を唱えお布施をもらうという、自由自在に宗旨を変えるような坊主で、いわばコジキのようなものだ。この坊主がしばらく前から患って床に伏せている。隣のよしみで面倒を見てやっているが、いよいよ危なくなってきたようだ。何か食いたいものはあるかと聞けば、アンコロ餅が食いたいと言う。なけなしの金で餅を買ってやると、一人で食うから出ていけと言われる。この男、俺の金でくわせてやっているんだから、少しぐらい食わせてくれてもいいだろうと腹を立てたが、仕方なく自分の部屋に戻る、長屋の壁の隙間から隣を覗くと、坊主が腹がけに隠してため込んだ金を、餅の皮に包んで飲み込んでいる。ああ、もったいない。どうせ死ぬんだから俺に残してくれてもいいだろう。あの金があったら、俺はこの最下層の貧乏暮らしから抜け出せる。
そう思っている間に、坊主は金を全てのみ込んで死んでしまう。どうにかして、あの金を手に入れたい。それで、自分が喪主になり、知り合いの寺に持っていき、火葬した後、腹から取り出そうと考える。
長屋の連中を集めて通夜の真似をして、下谷から麻布まで棺桶を運ぶ際の道順をたどる”言いたて”がこの噺の聞かせどころでもある。
さて、寺についた後、和尚を言いくるめて供養をした後、焼き場に持ち込み、焼いてもらうことになる。しかし、生焼けのところで火を止めさせ、腹のあたりを包丁で割いて金を取り出そうとする姿は、壮絶極まりない。そういえば、愛川晶さんの小説の中では、この場面をナイフで座布団を突き刺し、切り開くと言う演出をしていましたね。
この男、死体から取り出した金を元手に、餅屋を始めたので、噺の題が黄金餅となる。
考えてみれば、恐ろしい話だ。生焼けの死体をナイフで切り開いて金を横取りしようというのだから!
人は自分の置かれた境遇から抜け出そうとする時、ここまでのことができるものなのか?と考えさせられる。生きていくため、自分の境遇を変えるため、醜いこと、おぞましいこともやってのけるエネルギーが人にはあるのかもしれない。
金欲しさにコソ泥をしたり、詐欺を働いたりする小物は多くいるが、この噺の男は質が違う。性根が違う。
そういえば、桐野夏生さんのOUTという小説もこの手の話だなと思い出した。
さて、業というものが、本当のところなんなのかはよく分からないが、やるせない思いからくる凄まじい行動というのなら、それは肯定できない。
コメント