もののけ姫の主題歌を歌ったことで有名になったカウンターテナーの米良美一さんは、子供の頃壮絶ないじめにあっていたそうです。しかし、その記憶は書き換えられていました。
記憶の中の映像は、どのような仕組でしまわれているのか。

ビデオに撮ったみたいに鮮明に覚えてることってありますか?
昔のことをありありと思い出せるという人もいます。
では、人の記憶ってどのようにしまわれているんでしょうか?
答えから言うと、映像記憶はビデオのようではなくスチル写真の束として記憶されています。それがビデオのように感じるのは、スチル写真を連続して上映するスライドショーのように流れているからです。表現を変えると、昔のフィルム映画のように、一コマ一コマの写真映像を高速で連続で見せることで、流れるような動きになっているだけです。まさに死の間際に流れるという走馬灯のようです。
記憶の面白い点は、一度思い出すと、その映像はまた再編集されて”記憶”にしまうということです。思い出すそのたびごとに、記憶が再編集されいわば書き換えられるのです。つまり映画でいえば、監督がほぼ出来上がった映画を最終チェックして、このシーンをもう少しデフォルメしようとか、このシーンは無しにしようとすることに似ています。私たちの記憶映像は思い出すたびに、このような付け加えや、シーンの削除が行われています。極端に言うと、嫌な場面に強い感情表現がサブリミナルとして埋め込まれているかんじです。ですから、時間がたつにつれ記憶の中の映像はドンドン書き換えられて、事実とは全く違った質ものになってしまうことがあるのです。

記憶は簡単に書き換えられる。
これを利用すれば、嫌な思い出を良い思い出に変えられて、トラウマを消すこともできます。
心理カウンセラーの中には、トラウマになっている嫌な出来事を、あえて思い出させるようにする人もいます。受診者に対し慎重に質問しながら誘導し、嫌な思い出の中に強い感情をなるべく挟み込まないようにします。何のコントロールもないまま嫌な出来事を思い出せば、トラウマになるぐらいですから、恐い、苦しい、嫌だ、憎いなどマイナスの感情が、サブリミナルのようにその記憶映像に差し込まれ強化されてしまうでしょう。しかし適切な指導の下に思い出していくとき、マイナスの感情を挟み込まず、むしろ少しずつそうした感情を削除していき、何度目かには、それほど嫌な思い出ではなくなっているように誘導できます。早い話し、記憶を書き換えるわけです。こう聞くと、事実とは違う、捏造だと咎める人もいるでしょう。しかし、最初にも書いたように、人の記憶は思い出せば思い出した回数だけ、時間がたてば時間がたつにつれて自ずと自分に都合がいいように書き換えられていくものなのです。まさに羅生門です。
気づかずに記憶を書き換えた実例
この仕組みを利用すれば、良くない思い出も良い印象や言葉を挟みこめば、良い思い出に変えられるということです。なんでもない思い出も、消極的な感覚を、挟みこめば嫌な思い出になってしまいます。多くの人は気づかずにこうしたことを日々行っています。
こんな話があります。
東日本大震災の時、釜石の湾に面したある集落が津波で壊滅状態になり、小高いところに避難した人たちが孤立することになってしまいました。自分の家が波にのまれ、住み慣れた集落が黒い水に覆いつくされていく様子は見るに堪えないものだったでしょう。まさにトラウマになりそうな嫌な出来事です。時間がたつうちに、避難している場所で水がないために、どうにかして湧き水を探すことになりました。あるお婆さんが、この山を超えたところに水が湧いてるところがあるが危険だから無理だと言います。しかし、数人の若者たちが危険を承知でそこに行ってくる言って、空の容器を抱えて、聞いた場所に向かったのです。数時間後、彼らは水を汲んでそこに戻ってきました。このお婆さんはそれを飲んで、こんなうまい水は生まれて初めて飲んだと感じました。後にこの孤立した人たちは救助隊により助けられました。暗くまだ寒い中で不安と恐怖の時間を過ごしたわけですから、この出来事は恐ろしいという感情を伴った思い出になっていたはずです。
しかし、このお婆さんたちにとって、このときの震災の場面は、辛い思い出ではあるが、まっ先に思い出すのは、あの勇気のある若者たちとうまかった水のことです。つまりこの人の場合、あの恐ろしい津波の出来事は、恐かった以上に、ちょっと幸せな思い出になっているのです。このように、マイナスイメージの中に少しでもプラスの感情を入れることで、それはすこしずつ受け止められる良い思い出になっていきます。
逆のこともあります。
ジブリ映画「もののけ姫」の主題歌を歌ったことで有名になった米良美一さんの例をご紹介します。米良さんは子供のころから難病を抱えていることもあり、弱弱しくおとなしかったためいじめられていました。ある番組のインタビューでその壮絶な思い出を語ったことがあります。クラスメート数人が自分を枯葉の中に埋めて葬式ごっこをしたというのです。米良さんにとって「僕は彼らに殺された」という思いが強く残りました。彼はこのことを思い出すたびにとても苦しくてつらいと言います。さて、別の番組で、有名になった米良さんの昔の友人をサプライズでスタジオに呼んで、ご対面してもらおうという企画がありました。そのことを知らない米良さんは、誰が来てくれたんだろうと内心ワクワクします。カーテンを開けて出てきたのは、なんと米良さんを葬式ごっこで枯葉に埋めた友人数名だったのです。米良さんは顔面蒼白になってしまいます。ここで番組をぶち壊すわけにもいかず、クラスメートが話すことを上の空で聞いています。しかし、落ち着いてきて肝が据わったのか、米良さんは意を決してある質問をします。「○○君は、ぼくのことを枯葉の中に埋めて葬式ごっこをしたよね」僕をいじめたのは君たちだと言いたかったのです。これに相手は答えます。「ああ、やったなあ。面白かたなあ。かわりばんこに埋めてさあ。あの後、お前が俺を埋めたんだぜ!だいたい、葬式ごっこやろうって言ったのお前だよな!」米良さんは愕然とします。いじめられて、葬式までされた恐ろしい思い出は、自分が勝手に都合よくディレクターズカットしたウソの思い出だったのです。いじめられて辛い悲しいという強い感情が、思い出の映像の中の強烈な部分だけを残して、ほかの何でもない部分を切り捨ていたのです。映像記憶とはこのようなものです。
凶悪事件が起きて、捕まった被疑者が犯行を否定していたのに突然認めてしまうことがあります。取り調べ中に「お前がやったんだろ」と何度も言われ、具体的な方法を何度も聞かされていくうちに「俺がやったのかもしれない」「俺がやりました」と言うようになります。これも記憶の都合のよいディレクターズカットと言えます。
こうした記憶の仕組みを理解すると、自分で嫌な思い出を消し去り、嫌な過去から解放されることができます。誰かに何かされたことで、その人に対する嫌な気持ち悪感情がある場合、その人を一生に汲み続けていつか恨みを晴らしてやると思いながら生きるのは、かなりエネルギーのいることで、はっきり言って辛い人生です。また誰かに対する恐怖を抱きながら生きるのも息苦しすぎます。ぜひそこから解放されてください。
手始めに、普段から悪い感情を伴った言葉を使わないようにします。できるだけポジティブな言葉を使います。どんなことにも良い面を探して、それをじっくり考えるようにします。そして言葉に出します。この習慣が身についていることが重要です。
思い出したくない過去かもしれませんが、落ち着いた時間にあえて思い出してみます。この時気を付けていただきたいのは、悪い感情を生じさせないことです。嫌な出来事の中にも良い面が何かないか考えます。言われたことやされたことが、とてもひどいことだと自分が感じても、本当は自分の成長のために言ってくれたのではないかとか、たまたまその人の気分が悪かっただけで、自分に対する悪感情はなかったかもしれないと物事を良いように捉えてみます。無理にでもそう考えてみます。良い点なんて全く何もないと思うえる場合、この経験があることで誰かを慰めたり助けられると考えてみてください。落ち着いて冷静に考えていくとマイナス感情を挟み込まずに思い出すことができれば、少しずつでも穏やかな思い出に変えて記憶にしまうことができます。こうしてトラウマから解放されることができます。
ある心理学者は「トラウマなんていうものはありません。」と言っています。つまり今回の説明にあるように、記憶は自分の都合に合わせて作られているからです。嫌な出来事で誰かに恨みを抱いたり、何かに恐怖しているのは、もしかしたらある出来事を利用して嫌な感情や強い感情に縛られたいと思っているのかもしれません。結局誰かを憎み、不幸の責任を誰かのせいにする方が、自分で責任を取るより楽ですからね。きつい言い方ですが、自分で乗り越えなければならないことです。
今回は、記憶はどのようにしてしまわれているのかについて解説しました。
映像記憶はスチル写真のスライドショーのようなもので、思い出すたびに書き換えられているということです。
これを利用すれば、嫌な思い出も、良いものに書き換え可能であるということです。
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