人の不幸は蜜の味というけど

自分に起きたら、とんでもなく悲しく苦しいこと不幸のどん底に突き落とされたようなことでもそれが他人とくにTVでよく見る有名人のだれかに起きたのなら、蜜のように甘く「もっともっとちょうだい」ってなるのはなぜだろう。

毎日のTVのニュースやワイドショーはそういう人の不幸を多く取り上げている。政治家のスキャンダル・有名人の不倫・転落事故・火・経済悪化、環境問題るまえ、毎日毎時間 同枠の番組の中でさえ同じ映像、同じ内容がこれでもかこれでもかと突きつけられてくる。視聴者はすでにさっき見たばかりなのに同じように「あ、なんてひどい」「あーかわいそう」 と、同じようないう感情をわきおこす。

中には、震災やコロナニュースのようにあまりに凄惨な映像を目の当たりにし「もう見たくない」とスイッチを切る人もいるが、大はんの人はTVは点けっぱなしで、一日中同じか少ししか進展していない内容なのに喰い入るように見続ける。それはなぜか。

ヒマだからだ。そして人の不幸は蜜のように甘く甘美なのだ。その蜜は中毒性があるのだ。いわばネガティブ中毒だ。

人の脳の中では興奮しているときはドーパミンがたくさん出ている。興奮するとともに快感を生じさせる脳内ホルモンだ。これは長い時間持続しないので 快感や陶酔感の後ドーパミンがなくなるとまた欲しくなる。あの感覚をもう一度味わいたくなりまた欲しくなる。タバコ好きが次第に量がふえることや酒好きの酒量がふえることに似ている。映画のアクションシーンやホラーのドギツイ映像が過激になっていくのも、この影響と言われている。

ネガティブなニュースや映像にもこうした中毒性があり、多くの人がそれを受け入れているため、提供するTV局側もより強い刺激の、よりショッキングなものを探し求めるようになる。そして無ければ作るようになる。

一つの例は、オリンピックの実行委員長をしていた元首相が、女性蔑視ともとれる発言をしたと大きく報じられたことだ。

実のところあの発言はそんな意味はまったく含んでいない。むしろ話の全体を読むと、女性を高く評価しているということを述べているものだった。ただその中でバランスを取ろうとしたのか、少しばかり女性のマイナス面を含めたら、そこだけが切り取られて報道されたのだ。かの方は、失言することで有名だったため、国民のほとんどは またか、やっぱりだめだなこの人は となったわけだ。というかそうなるようにTVや報道側が持っていったということだ。

首相であったときと、それ以前もそれ以後も失言で話題を提供してきた人だ。

かくして、此度のニュースは毎日報じられ、あいつをやめさせろとなり、ケリがつくまでやめられなくなるのだ。辞任のニュースが大きくとり上げられ、見ている人たちはスカッとする。不快なやつのニュースを見て興奮し、退治しないといけないという気持ちがピークになり、願望がかなったときに快感を味わうという構図そのままなのだ。

漫才コンビでグルメで有名なW氏の場合もそうだ。普段偉そうにしていた人が、涙を流しスミマセンゴメンなさいを言いつづける。番組のMCをして言葉巧みに会話を回せる人が、質問に対してことばにつまる姿を見てスカッとする。こうして人の不幸を言て笑っているのに自分は正しい、正義を愛していると思っている。つくづく人はいじめ体質なのだ。

一説によると、生き物はすべていじめ体質なのだそうだ。どんな会社や組織にも グループができて、排除される人が出てくる。同じグループ内でも時間がたつと、やはり仲よしグループができ、つまはじきにされる人が出てくる。
コンピュータシュミレーションで理想的な仲のよい町をつくって平和な国にしようとしても、長い時間がたつとグループができていじめが生じてしまうらしい。

つまはじきが起こるのはなぜなのかは分からないのだそうだ。

いじめ体質は人間の性なのだ。つまり人の悲しそうな姿を見、かわいそうと思うと同時に、自分はあっち側じゃなくて良かったと、自分の幸福な立ち位置を再確認して快感を感じるのだ。人の性癖なのでしかたないことなのかもしれない。これをわれわれクリスチャンは、人間の不完全さと呼ぶ。

それで、こんななさけない自分を少しても改善する方法は、ゴミみたいなネガティブなニュースやTVのワイドショーなどを見ないことだ。エッジの効いた新聞なんかも見る必要はない。ネットニュースのトップに比ぶ刺激的なタイトルも見る必要はない。たとえ目に入ってきても、ひっかからないことだ。
ネガティブ情報を遠ざけることにより、安らかな気持ちを保っていきたい。

聖書の詩編にはこう書かれているとおりだ。

「私の目をそらさせてください。無価値なものを見続けないために。
あなたの道で私を生き続けさせてください。」
詩編119:11 新世界訳

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